い入れて、壱岐に帰ってくるのである。たいてい往復で半歳ぐらいかかっていたそうである。
私の家のそんな仕事をしていた運送船の船頭さんの一人に、私たちが喜作と呼んでいた老人がいた。その老人の家と私の家が、親戚のように親しみを感じていたことは、子供心にもよく知っていた。喜作さんも、その子供たちも、私が物心つくようになってからは、別に何の心要な行き来はなかったのであるが、その親族が一家をあげて、私の家に忠城の至情のような態度を表していたことは、充分すぎるほど、感づいていた。また
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