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である。日露戦争のころはもちろん、その後も壱岐や対馬は、戦場なみにあつかわれ、北九州から来た守備兵が、戦場なみに島の防衛にあたっていたのである。第一次世界大戦のときにも、対馬の沖でドイツの軍艦が拿捕されるのか、撃沈されるかした。第二次世界大戦のさいには、近海にアメリカの潜航艇が、しきりに出没し、日本の⊗〔本原稿裏に記入か?〕
運送船が撃沈されたことはたびたびである。戦争中、私は何度か京城から対馬の母のもとに渡ったことがあるが、燈火を消していた、私らの乗船は、いつも海防艦に護衛されていた。南方に行く大勢の軍属の屍体が、数日間、対馬の西海岸にうちあげられたこともあった。壱岐、対馬はつねに前宵基地であった。だから他民族に対して、ここほど民族意識の強いところは国内のどこ
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