いたことを、私らにも話したことがある。それは、母が父の帰宅を、すでに十年近くも待っていたころであったのである。
対馬に移って間もないころ、兄が中学に入学した祝いのためか、移住の祝いのためというのか、当時、朝鮮の釜山で酒造所を経営していた親戚の家から、白米を一度に二十叺(かます)⁽¹⁾送ってきたことがある。置き場にも困り、また旅に来た気楽さもあってか、それが機縁となって、母は米屋を始め、その後ずっと米屋をつづけた。兄が中学を出るころには、三日毎に汽船便がある度に、百叺づつの朝鮮米を、売り捌いていた。