top of page

は、その後、私が中学四年の時まで、京城⁽³⁾で生きていたが、とうとう母と三人の子どものところには、一度もついに帰ってこなかった。兄と姉と私との、三人の子どもの成長のみを楽しみにしながら、母と祖母は、伽藍洞⁽⁴⁾のような大きな古い家で、父の帰る日を、空しく待っていたのである。
祖母や親戚のものたちは、ときには父の冷淡さを憤り、ののしることもあったが、私ら兄弟は、母の口からは、ただの一度も、父を悪くいう言葉を、聞いたことはなかった。父は、当時の壱岐には珍しいほど博識で、壱岐の海岸に、アメリカの汽船が座礁したときにも、
「父の訃報を手にする迄」の文字が消されている
bottom of page