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った。一種の漁具の発明と、その普及のために、友人と共同して、何年か夢中になったことがあり、博多に営業所をつくって、全国に宣伝していたのであるが、事志に反し、二年間ぐらいのあいだに、母の生家の財産を、ほとんど全部なくしてしまったのである。私は少年時代に、父がそのころに作った機械の図面や、広告文の印刷物が、おびただしく蔵の内に残っていたのを見たことがある。その印刷物は、私の少年時代に、長い間、いろいろの張り物や、袋や障子紙にさえ、用いられていた。
父は発明品の失敗の名誉回復をするといって、合併前の朝鮮に渡った。そのころ、朝鮮には、特に北九州地方から出掛けていくものが、はなはだ多く、祖母の近い親族の者と、大勢出ていっていた。朝鮮は、寒い国と聞いていたので、母は父のために、綿入れの足袋まで作ってやったと、祖母が皮肉まじりにいったことをおぼえている。そのとき私は、母の胎内にあった。父
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